76回目の終戦の日に・・・
今年も終戦の日が近づいた10日
新聞の地方版に亡くなった母の名前を見つけました
滋賀県平和祈念館で開かれている
企画展のことが書かれてあります

(平和祈念館HPより)
第29回企画展パンフレット

今回の企画では「フィリピンの戦場Ⅰ-ルソン島編-
とのことで従軍看護婦だった母のことを
取り上げて下さっていたのです

母は当時日本の統治下にあった朝鮮(今の韓国)へ
渡った両親の二女として誕生しました
そして女学校時代に第二次世界大戦が勃発
卒業間近になったある日
日本赤十字本社から看護婦募集のため
「病院船」という映画を持って職員が来たそうです
それを見て絶対に従軍看護婦になりたいと親の反対にもめげず
日赤看護婦養成所に入学しました
(フィリピンへ発つ前に同級生と遺書代わりに布に書いた文字
上は亡くなる4年前に書き上げた手記)

戦況拡大に伴い学業半ば繰り上げ卒業
召集令状(兵隊じゃないのに!!)が来て
フィリピンルソン島へ・・・
約2年間傷病者の看護にあたりましたが
昭和20年6月には病院も宿舎も焼かれ
島北部山岳地帯を患者と共に彷徨
そして終戦・・・
日本へ帰国できたのはその1年後でした

二十歳前の女性が戦場に行く・・・
自分が志願したとは言え現実とは思えない修羅場
友人、同僚の死
自分もいつ死ぬかわからない恐怖と故郷の家族への思い
戦争を体験した方たちがいなくなる時がいずれやって来ます
「戦争をして幸せになることなんか一つもない」
いつも言っていた母の言葉です
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満開の桜に想う
終戦記念日に思う
73回目の終戦記念日を迎えました
戦争を知らない私にもこの日はやはり特別な日です
特攻も覚悟して入隊した(S19年)宇和島の海軍予科練ではすでに乗る飛行機も無く、
途中で教育そのものも中止されたので、敗戦に向かっていたことは一目瞭然であったこと
上官から「敵が上陸したら地雷を抱えて突っ込め」と言われ、この先どうなろうが生きて
親兄弟に会うのはかなわないであろうことを悟ったと晩年、話してくれた父
母は日露戦争の軍人だった父親を見て育ち、女でも’お国のために役立てる’従軍看護婦を
志し、フィリピンルソン島に派遣されたものの最後はまともな看護活動などできるはずもなく、
ジャングルを彷徨う逃避行の末、終戦を知りました
父は多くは語りませんでしたが、鹿児島の陸軍に入隊した同級生が特攻隊として
知覧から出撃し戦死したことを話すとき、いつも泣きました
母は二十歳そこそこで亡くなった戦友と、生きながらえた自分とはどこが違っていた
のだろう・・・とずっとずっと心に引っかかっていたようでした
父も母も戦争で受けた心の傷は死ぬまで癒えることはなかった・・・
戦争で幸せになることなんて何ひとつもありません
悲惨な戦争を二度と繰り返すことがなきよう祈りを込めて・・・


母を想う
今日は母の百か日法要と納骨でした
桜と共に逝ってしまった母・・・もう3ヶ月あまり経ち暑い夏がやって来ました

亡父が1997.07.23に撮影したスイレン 草津 みずの森公園
樹木葬が理想と言っていたけど願いをかなえてあげられずにごめんね
でもここからはびわ湖と近江富士が見えて最高のロケーション、それもいいでしょ?
父が亡くなってからうちに来てくれて2年、最後の親孝行をさせてくれてありがとう
一時は父より先に逝ってしまうのではないかと思うほど危険な時を乗り越え
ちゃんと父を見送ることもできてよかったね
先に逝った人たちには会えましたか?
従軍看護婦としてフィリピンに行き、大切な友人を失ったことが癒えることのない心の
大きな傷でいつも「彼女たちと私はどこが違ったのだろう・・・」と言い続け、亡くなる
数日前には「やっと戦友が迎えに来てくれる時が来た」と言いましたね
そして最期が近づいた時、意識が朦朧とする中で突然右手を上げて敬礼をした
のには私もKz(母の初孫)も本当にびっくりしたよ
あれはきっと捕虜収容所病院のブリス院長(規則を冒してまで日本人捕虜に対し
濃厚な治療をされた米軍軍医さん)にしてたんだなと今になってわかりました
本当にお疲れさまでした、そしてありがとう・・・
最後の2年間は忘れることのできないかけがえのない時間でした
両親の眠るお墓から見たびわ湖と三上山(近江富士)

天寿を全うする
庭の枝垂れ桜が散り始めた7日朝、母が亡くなりました
’18.04.09撮影

(この枝垂れ桜は母が買ってくれたものです 亡くなる前日に体を起こして見せたら
なぜだか「♪こがねむしはかねもちだ かねぐらたてた くらたてた♪」と歌いました)
2年半前に主治医から「心臓は限界、突然死もあり得る」と言われていましたが、私の家に
引き取ってから2年、心不全の発作を起こすこともなく穏やかに過ごした末の老衰死です
自宅で看取ることの不安もありましたが、最期は私と甥(母のことを尊敬してやまない大切な
初孫)に手を握られて静かに息を引き取りました
前日には私に、数時間前には甥にはっきりと「見守っているよ」と言ってくれました
従軍看護婦としてフィリピンルソン島に赴き、九死に一生を得て帰ってきた母
父と出会い、何もないところから二人で築き上げ私たちを育ててくれました
今年に入って一日の睡眠時間が長くなり、「ありがとう」や「天国、神様、仏様」
「お父さん、お母さん」などの言葉が多くなってきたので、私も少しずつ気持ち
の整理を始めました
亡くなる前日にはそれまでほとんど父のことは言わなかったのに「お、じ、い、さ、ん」
(父のことをそう呼んでいました)と言って私をびっくりさせました
父は2年前の4月11日に亡くなっていますが、迎えに来てくれたのかな・・・と
年をとるということはどういうことなのか、その切なさ、寂しさを教えられました
そして母は老衰死を身をもって見せてくれました(父は苦しんだ末の病死です)
今はただただ悲しく、寂しく、辛いですが明るかった母を思い、元気を取り戻したいです
ブログが滞りがちな時にもご訪問くださったみなさま、ありがとうございます
コメントをくださったみなさま、返事が遅くなり申し訳ありませんでした
今後ともよろしくお願いいたします
紅葉の写真
嘆きのサザンクロス
戦後72回目の夏・・・
あの日、父は海軍飛行予科練習生として愛媛県宇和島で、
母は従軍看護婦としてフィリピンルソン島で終戦を迎えました
戦争なんかなかったら二人とも青春真っただ中だったはず・・・
父は寡黙な人で自ら進んで戦争の話はしませんでしたが、終戦の
前年、特攻も覚悟し予科練14期生として入隊したが、訓練用の飛行機
さえなく毎日お尻を叩かれていたこと、戦後母と姉とで苦労したことは
聞いていました
母は女ながら赤紙の召集令状でフィリピンへ行き、医薬品も物資も足
りない中、傷病兵の看護をしていたこと、終戦も知らずジャングルを
彷徨っていたこと、捕虜収容所病院での出来事を聞かせてくれました
それらのことを70代半ばも過ぎた頃から滋賀県のNPO戦争を語り継ぐ会
で語り部として小中高校や各種の会合の場で話していました
そしてそれまでメモ書きみたいにしていましたが、孫から「おばあちゃん、
僕らのためにもきちんと残して」と言われ、何年もかけて整理し冊子に
したのが下の写真「嘆きのサザンクロス」です
フィリピンへ向かう船からずっと見えていた南十字星(サザンクロス)を題名に・・・

この冊子は私の手作りです
貴重な体験をした母の娘として、そして同業の後輩として私にできる
ことを考えた時、冊子化してできるだけたくさんの方に読んでもらうこと
にしました
母にゆかりのある人達、私の友人知人、そしてその友人たちが様々な
方面の方にも渡してくれ、若い世代の人達にも戦争を考えるきっかけに
なったように思います
これは益田市に住む私の従妹(母の姪で看護師)が仕事上でお付き合いのある
元軍医さんに冊子を読んでもらったところ、ご厚意で数冊製本してくださったものです

私は戦争の爪痕や戦後の混乱など何も知らない時代に生まれ
何不自由なく育ちました
でも両親や祖母の話から戦争の悲惨さ、残酷さ、理不尽さを知り、
絶対に繰り返してはならないと思っています
戦争体験を語れる人たちは確実に近い将来いなくなります
父の晩年、予科練を志願した時や終戦を知った時の気持ち、
戦死した級友のことを聞き、多くを語らなかった父のことが少し
わかったようにも思いました・・・
あの日、父は海軍飛行予科練習生として愛媛県宇和島で、
母は従軍看護婦としてフィリピンルソン島で終戦を迎えました
戦争なんかなかったら二人とも青春真っただ中だったはず・・・
父は寡黙な人で自ら進んで戦争の話はしませんでしたが、終戦の
前年、特攻も覚悟し予科練14期生として入隊したが、訓練用の飛行機
さえなく毎日お尻を叩かれていたこと、戦後母と姉とで苦労したことは
聞いていました
母は女ながら赤紙の召集令状でフィリピンへ行き、医薬品も物資も足
りない中、傷病兵の看護をしていたこと、終戦も知らずジャングルを
彷徨っていたこと、捕虜収容所病院での出来事を聞かせてくれました
それらのことを70代半ばも過ぎた頃から滋賀県のNPO戦争を語り継ぐ会
で語り部として小中高校や各種の会合の場で話していました
そしてそれまでメモ書きみたいにしていましたが、孫から「おばあちゃん、
僕らのためにもきちんと残して」と言われ、何年もかけて整理し冊子に
したのが下の写真「嘆きのサザンクロス」です
フィリピンへ向かう船からずっと見えていた南十字星(サザンクロス)を題名に・・・

この冊子は私の手作りです
貴重な体験をした母の娘として、そして同業の後輩として私にできる
ことを考えた時、冊子化してできるだけたくさんの方に読んでもらうこと
にしました
母にゆかりのある人達、私の友人知人、そしてその友人たちが様々な
方面の方にも渡してくれ、若い世代の人達にも戦争を考えるきっかけに
なったように思います
これは益田市に住む私の従妹(母の姪で看護師)が仕事上でお付き合いのある
元軍医さんに冊子を読んでもらったところ、ご厚意で数冊製本してくださったものです

私は戦争の爪痕や戦後の混乱など何も知らない時代に生まれ
何不自由なく育ちました
でも両親や祖母の話から戦争の悲惨さ、残酷さ、理不尽さを知り、
絶対に繰り返してはならないと思っています
戦争体験を語れる人たちは確実に近い将来いなくなります
父の晩年、予科練を志願した時や終戦を知った時の気持ち、
戦死した級友のことを聞き、多くを語らなかった父のことが少し
わかったようにも思いました・・・
父と桜
今日は父の命日です 一周忌を無事終えました
4月に生まれ、4月に逝った父・・・
それを聞いた人は皆さん「お父さん、桜が好きやったんやね」
と言ってくださいます
無口で気難しかった父で、桜と結びつけて考えたことはなかった
けど、今は”そう言えばそうかも・・・”と思っています
70歳を過ぎたころから写真に凝り始め、お城🏯、祭り、花
、もみじ
を撮りに行ってました
草津の蓮の群生地にはシーズンになると夜明け前から行ってたなぁ
去年亡くなった後、私の友人から写メールが届き「お父さんから前に
もらった写真」とありました 額装した桜の写真でした
彼女(Nurse)には父が入院中に大変お世話になっていたのです
「あの笑顔が忘れられん・・・」とも書いてくれていて。。。(;_;)
海津大崎、彦根城、長浜城、余呉湖にもお弁当を作って
父、母、夫と毎年のように桜見物

に行きました
3年前体調が悪い中、疎水沿いの桜吹雪を車で突っ切ったのが
最後になりましたね
今日は強風と雨の中、おばあさん(母のこと)を連れて通り抜けてきたよ
うちの枝垂桜はまだまだです
2017.04.06

2017.04.09

市内の桜は満開を迎えたばかり、今日の雨でも大丈夫そうでした
4月に生まれ、4月に逝った父・・・
それを聞いた人は皆さん「お父さん、桜が好きやったんやね」
と言ってくださいます
無口で気難しかった父で、桜と結びつけて考えたことはなかった
けど、今は”そう言えばそうかも・・・”と思っています
70歳を過ぎたころから写真に凝り始め、お城🏯、祭り、花


を撮りに行ってました
草津の蓮の群生地にはシーズンになると夜明け前から行ってたなぁ
去年亡くなった後、私の友人から写メールが届き「お父さんから前に
もらった写真」とありました 額装した桜の写真でした
彼女(Nurse)には父が入院中に大変お世話になっていたのです
「あの笑顔が忘れられん・・・」とも書いてくれていて。。。(;_;)
海津大崎、彦根城、長浜城、余呉湖にもお弁当を作って
父、母、夫と毎年のように桜見物



3年前体調が悪い中、疎水沿いの桜吹雪を車で突っ切ったのが
最後になりましたね
今日は強風と雨の中、おばあさん(母のこと)を連れて通り抜けてきたよ
うちの枝垂桜はまだまだです
2017.04.06

2017.04.09

市内の桜は満開を迎えたばかり、今日の雨でも大丈夫そうでした