fc2ブログ

76回目の終戦の日に・・・


今年も終戦の日が近づいた10日
新聞の地方版に亡くなった母の名前を見つけました
滋賀県平和祈念館で開かれている
企画展のことが書かれてあります
平和祈念館
(平和祈念館HPより)

第29回企画展パンフレット
祈念館

今回の企画では「フィリピンの戦場Ⅰ-ルソン島編-
とのことで従軍看護婦だった母のことを
取り上げて下さっていたのです
image2_202108140925443ed.jpeg

母は当時日本の統治下にあった朝鮮(今の韓国)へ
渡った両親の二女として誕生しました
そして女学校時代に第二次世界大戦が勃発
卒業間近になったある日
日本赤十字本社から看護婦募集のため
「病院船」という映画を持って職員が来たそうです
それを見て絶対に従軍看護婦になりたいと親の反対にもめげず
日赤看護婦養成所に入学しました

(フィリピンへ発つ前に同級生と遺書代わりに布に書いた文字
上は亡くなる4年前に書き上げた手記)
image1.jpeg

戦況拡大に伴い学業半ば繰り上げ卒業
召集令状(兵隊じゃないのに!!)が来て
フィリピンルソン島へ・・・
約2年間傷病者の看護にあたりましたが
昭和20年6月には病院も宿舎も焼かれ
島北部山岳地帯を患者と共に彷徨
そして終戦・・・
日本へ帰国できたのはその1年後でした

DSCN0969.jpg

二十歳前の女性が戦場に行く・・・
自分が志願したとは言え現実とは思えない修羅場
友人、同僚の死
自分もいつ死ぬかわからない恐怖と故郷の家族への思い

戦争を体験した方たちがいなくなる時がいずれやって来ます
「戦争をして幸せになることなんか一つもない」
いつも言っていた母の言葉です



関連記事
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

こんにちは(*^^*)

こんな言い方をしたら失礼と思いますが
凄いお母様だったのですね。

何と言っていいのか…
気持ちが上手く伝えられません(=_=)

遠くから手を合わせて頂きます。

No title

こんにちは。

戦争って何だろう?って思います。
たとえ勝っても良いことは無いですよね。
国を支える人間が何万人て命を奪われてしまう。国家の損失ですよ。

20歳の女子を戦争に引っ張り出す。
当時は狂気の沙汰でしたね。

今はコロナと戦争してる。
若い方の命が奪われています。
自助にさせられた国民は不幸です。

国は完全に暴走しちゃってますよ。


No title

二十歳前なんて・・・・ 
のほほ〜んと生きてた私なんかには、想像もできない
地獄のような日々でしたでしょうね。
そんな中でも看護師として立派に仕事をなさってきたのですから、苦しい中にも、きっとたくさんの人を救って感謝されて、ささやかな喜びもあったのだろうと信じたいですね。

お母様は大変なご苦労をなさった分、晩年はokkoさんのそばで
穏やかな日々を送られて、お幸せだったと思います。
こうした企画展で取り上げて、戦争を知らない世代に伝えてもらえることも
喜んでいらっしゃることでしょうね。

大雨、大丈夫ですか?
そちらはだいぶ降ったようですが。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

Re: こんにちは(*^^*)

nadeshikobutaさま

ちょっと重い記事になりました。
両親ともに(父は予科練)戦争体験者であり祖母の命日でもある
8月15日は私にとっては忘れることのない日なんです。
私自身は全く戦争を知らない世代ですので聞いたことを伝えるのも
難しく、nadeshikoさんの言われるように気持ちがうまく伝えられない
というのが正直なところです。ありがとうございます。

Re: No title

ピップさま

今の世も世界各地では戦争が起こっています。
本当に何のために誰のために戦争をするのでしょう・・・。
母は「教育も恐ろしい、みんながみんな軍国少年、少女だった」
とも言っていました。そんな世の中に逆戻りすることはないと
断言したいですが、一抹の不安も・・・。

目に見えないコロナとも戦いですね。コロナウィルスは見えないけれど
結果として起こっている現実になす術もありません。
せめて自分で出来ることを粛々と・・・です。

Re: No title

amocsさま

母の話を聞きながらいくら想像しようと思っても想像しきれるものでは
ありませんでした。
従軍看護婦の役割は傷病兵を看護してまた戦場に送るだけで結局戦争に
加担しているのだと言われるようなこともあったそうです。
でもきっとすべての従軍看護婦は使命感と共に自負もあったのでしょうね。

もうほとんどが戦争を知らない世代になってしまっているので聞いたことを
伝えていくしかありません。企画展に行ってきましたがそこには小学生が
夏休みの宿題としているのか熱心にメモを取っている姿がありました。
若いお父さんがご一緒というのも嬉しい光景でした。
本当に母は喜んでいることでしょう。amocsさんありがとうございます。

雨は怖いくらい降りました。スマホからもジャンジャン警報が鳴ったりして・・・。
ここは大丈夫だったのですが、周辺の道路で陥没や土砂崩れがあって
一部通行止めです。明日からまた仕事の方たちは大変です。
amocsさんのところは大丈夫でしたか?

戦争

こんばんは~♪
そちらの雨はいかがですか?
道路は通れるようになったでしょうか?

お母様は志願されて、苦しいけれど
人のために尽くすことを選ばれたのですね。
とても尊敬します。
ルソン島での戦いは、終戦間際の最も熾烈で
過酷な、日本軍の負け戦だったと思います。
お母様の恐怖も、いかばかりだったかと思います。
でも、生還されたから、今のokkoさんがおられるのですね。
私の伯父、父の兄も、志願して15歳で兵隊さんになり、終戦後の引き揚げ船で亡くなったと聞いています。
もしかしたら、同じルソン島での戦いだったかもしれません。
私が子どもの頃に祖母が亡くなったので、詳しく知る人がいなくなってしまいました。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

こんばんは♪

お母さま、立派な方だったのですね。
その時代に生きたからと言って誰もが出来ることではありません。
無事に帰ることが出来て本当に良かったです。
戦争の時の話は、私もよく母に聞かされました。
父は保健兵として広島に行っていたと聞きます。
その父からは話を聞いたことはありません。
言いたくもなかったのでしょうか。
今もどこかで争いをやっていて、戦争をやっている時って狂っていますよね。。
2度と起こらないようにと切に願います。

okkoさん、心配してましたが、こうして更新されてて良かったわ~♪

Re: 戦争

ひーさんさま

山から下りる道が片側、15メートルも陥没しており車は通れますが、
バスはしばらく運休になりそうです。夏休みでよかったですが、通勤
される方は気の毒です。
ひーさんのところは大丈夫でしたか〜?

伯父さまが戦死されたのですね。15歳で志願され…
軍国主義に染まっていたからみんな同じ気持ちだったのでしょうね。
二度とそんな世の中にならないよう、微力ながらできる
ことがあればしたいと思います。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

Re: こんばんは♪

miyakoさま

ご心配いただきありがとうございました。
道路の陥没等があり一時、陸の孤島状態になりましたが昨日の
午後から仮復旧され何とか車の通行ができるようになりました。
でも当分バスは無理なようです。
miyakoさんのところは大丈夫でしたか?

母は軍国少女だったと言いました。その頃の教育がそうでしたから
仕方がなかったのでしょうね。本当に生死は紙一重の中、よくぞ
帰って来られたことです。父も予科練でしたからもう少し年がいってたら
特攻機に乗っていたでしょう。
私の父もほとんど戦争の話はしませんでした。
本当に戦争は狂気ですね。何のためにするのか?不幸しか生み出されません。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

No title

こんにちは^-^
okkoさんのお母様、戦地でご苦労されんたんですね・・・
海外の戦地で看護婦に従事されて、その使命には頭が上がりませんね。
私の父は陸軍士官学校に行った軍人でした。
当然戦地には行っています。
その時の部下に母の兄が学徒動員で居て
その縁で父とは結婚したみたいです。
母の兄は戦死しました。
父は聞けば戦地のことを話してくれましたが、
自分から進んで戦争のことを口にすることはなかったですね。
戦争、勝っても負けても、いいことは一つもありませんね。

こんにちは。

親の反対を押し切って自ら志願し看護にあたっていらした姿を想像しただけで目頭が熱くなって来ました!
本当に素晴らしいお母様でしたね!

世の中、色々な事が起こり過ぎて・・・
平和の尊さを次の世代に伝えなければなりませんね!

Re: No title

あとほさま

時代が時代だったとはいえ、少女が死をも覚悟して看護婦の
道を選ぶ・・・。私には想像もできなかったことです。
あとほさんのお父さまも戦地に行かれていたのですね。大変なご苦労を
なさって無事お帰りになって今のあとほさんがおられる・・・。
私の父は予科練に行っていましたが、練習機すらなく終戦になりました。
やはりうちの父も自ら進んで戦時中の話はしませんでした。
思い出したくもないことばかりだったのでしょうね。

Re: こんにちは。

Junoさま

あの頃は兵隊に行くことはほぼ死ぬことを覚悟しなくてはならなかった
ように従軍看護婦も同じことだったのでしょうね。
平和な世に生まれた私には想像すらできないことです。
戦争経験者がおられなくなっていく中、本当に私たちが伝えていかなければ
と思います。

okko 様

お母様、凄い勇気と博愛を持った方ですね。
フィリピン戦線は飢えと疫病とアメリカ軍の攻撃が続いた中で、本当に奇跡的に帰国できたと思います。
無謀な戦争に走った偉い軍人に今でも怒りを覚えます。

滋賀県平和祈念館 私はあることも知りませんでした。東近江市に行った折には寄ってみようと思います。

Re: okko 様

捨楽斎人さま

母の父は軍人だったし、学校の教育が軍国主義一辺倒だったので
母も軍国少女だったと言います。
フィリピンも激戦地のひとつですよね。本当によく生きて帰れた
と思います。終戦後一年間は捕虜収容所で働いていましたが、その時の
同僚や入院していた兵隊さんたちとはずっと戦友会のようなものを開き
慰霊を行っていました。みなさん、九死に一生を得た方たちばかりで
絆が深かったようです。

滋賀県平和祈念館は平成24年に開館されました。
それまでに県内に残っている戦争体験者からの聞き取り調査をされており
母のところにも何度も来られていました。こういった形で残していただける
ことを母はとても喜んでいました。
マーガレットステーションのすぐそばにあります。ぜひ一度行ってみてください。

こんにちは。

二十歳前後で従軍看護婦に志願されたお母様の意思の硬さにも驚きました。
戦地での活動は想像を絶するような修羅場だったのでしょう。
こうして公の場で取り上げて下って、お母様の偉業を多く方に
知っていただく機会があって良かったですね。
okkoさんもそんなお母様の姿を受け継がれたのですね。
お母様も嬉しかったのではないでしょうか。
大雨の影響がまだ続いているようですね。
okkoさんの所は大丈夫でしたか。
お気をつけてお過ごしくださいね。

Re: こんにちは。

katatakaさま

戦争を知らない世代の私には母から聞いたことを少しでも伝える
ことしかできません。このブログを通じてそれができたなら
本当に嬉しく母も喜んでいること思います。
みなさまからのコメントとってもありがたく読ませていただきました。

先週から降り続く雨、尋常ではありませんね。1年分の雨が8月に
降ったところもあったと聞きました。
こちらは道路の陥没があり交通規制中です。落ち葉やごみが周辺に
流れて来ていますが掃除するいとまもなく雨が降ります。
katatakaさんの方はいかがでしたか?
パラリンピックも開始されると更にコロナ感染の増加が問題になり
ますね。どうぞお気をつけてお過ごしください。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

No title

志 崇高なお母様で尊敬します。ご苦労なさったのですね。
終戦の翌年 私の父が復員して来た時の姿 今でも忘れられません。(当時、私は幼児でした)
全ての記憶はないのに、これだけは強烈に昨日の事のように鮮明です。
因みに主人の父親は海軍で戦死、遺骨がありません。(主人は父親の顔も覚えてません)
政府からの戦死のお知らせは「紙切れに書いた」ものだけだったそうです。

No title

こんにちは
いつも訪問ありがとうございます
お母様は立派な方だったのですね
以前沖縄に行くときにあった方ですが
ひめゆりの塔の話をして頂いたことがあります
見ず知らずの方だったのですが
話に涙したことを思い出してしまいました
同じ気持ちになりました

Re: No title

koyukoさま

お父さまが復員されたのは終戦の翌年・・・。お母さまはじめご家族の
みなさまはその間本当に気が気ではなかったでしょうね。
そして幼いkoyukoさんの記憶にあるその場面、私にも見えるように
浮かびました。ご無事で帰られ本当によかったです。
ご主人のお父さまは遺骨もない・・・。紙切れだけで知らされても
信じられません。やり切れませんね、どこでお亡くなりになったのか
わかればせめてもの救いかもしれませんが・・・。
お盆は戦争で亡くなったすべての方のご冥福をあらためて祈る日でもありますね。

Re: No title

きみちゃんkさま

私にとってはごく普通の母でしたが、看護婦として命を賭したと
いうことは強い人だったなとあらためて思います。
沖縄も激戦地でたくさんの方が犠牲になっておられますね。
私はひめゆりの塔には行ったことがないのですが一度は訪れないと
いけないところだと思っています。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます